132 蝉時雨 New! 2006/07/17(月) 20:18:24.57 ID:xH3xaIVh0
引きこもり5年目の夏。

既に親からの仕送りも止まり、所持金も尽き始めていた狭いアパートの一室は、うだるような暑さだった。
窓を全開にし、玄関の扉まで開けるも、大して涼しくなかった。
金がないことは死に直結する。なぜなら、食料が手に入らないからだ。
自らの空腹の具合を確かめるように腹をさすり、溜息をついた。
空腹と暑さで苛つき、壁を蹴飛ばしてみたが、返ってくるのは指先の痛みだけ。
隣の住人は留守なのだろうか。在宅中であれば、怒鳴り声も返ってくると思ったのだが。
妙な孤独感が襲ってくる。
余計に苛つき、再度壁を蹴る。

「うるせえ!」

突然の怒鳴り声に驚き、腰を抜かした。同時に孤独感が拭われる。
いい加減、働かないと不味いよな。
そう思ってみても、結局は行動にでない自分に呆れ果て、外を眺める。
ただでさえ暑いのに、鬱陶しい蝉の鳴き声で頭が狂いそうだ。
クーラーがあれば、窓も扉も閉め、この鬱陶しい鳴き声が遮断できるのだが。
暗澹たる気分になり、僕は横になった。
とりあえず、寝れば空腹も多少は治まるだろう──




──暑すぎて寝れなかった。

135 蝉時雨 New! 2006/07/17(月) 20:29:52.74 ID:xH3xaIVh0
隣人に怒鳴られてから数日たち、いよいよ体力の限界が迫ってきた。
流石に危険を感じ、アルバイトでも始めようと思ったものの、自分のやつれた顔では接客業はことごとく断られるし、
工事現場のバイトなど、痩せ細った自分の肉体では不可能だ。
まさに万事休す。
こうなったら最後の手段。親に助けを求める。
電話に手をかけようとした時、外から声が聞こえる。

「君は結局、他人に寄生してでないと生きられないんだね。」

一匹の蝉が嘲笑っていた。
寄生。そう、僕は自分の力では何もしない。
常に頼りになる人を見つけては、その人間に寄生し、その恩恵を受け、使えなくなれば捨てる。
そうやって、楽な道を選び生きてきた。
あの時と何一つ変わっていなかった。
だから、僕はツンを救うことができなかったんだ。

一瞬後悔の念が押し寄せ、電話から手を離そうとするも、結局ダイアルボタンを押している自分がいた。
──今更何だ。どうせそれは過去の事。自分は今、死にそうなのだ。
死ぬのは怖い。後の事など其の時に考えればいいから、今はどんな手を使ってでも生きてやる。
生きることを最優先させるのは、生物としての本能だ。誇りや自尊心、世間体など、そのためならくれてやる。
もっとも、そんなものはとっくに失っていたが。
ダイアルボタンを押し終え、コールが鳴る。

「そう考える内は、君は愚か者のままだよ。」

もう一度外を見る。
適当に部屋にあったゴミを投げ、追い払おうと思っていたのだが、
自分に声をかけていた蝉は、既に死んでいた。
自らの力で、短い生命を必死に生きぬいた自らの姿を、誇らしげに僕に見せつけるかのように。
電話は、結局繋がらなかった。

138 蝉時雨 New! 2006/07/17(月) 20:46:33.37 ID:xH3xaIVh0
水道水だけでの生活は、今日で何日目だろうか。
数少ない友人であるドクオにも遂に見離され、ショボンは仕事が忙しく、それどころじゃないと言っていた。
頼みの綱は全て断ち切られ、もう希望もない。
蝉の鬱陶しい鳴き声も、まともに頭に響かなかった。

自分の足で走っていた、あの頃が懐かしい。
他人に寄生する形であるとはいえ、あの頃は何もかもが光り輝いていた。
首筋を焦がす真夏の太陽は明るい希望の象徴のように思えたし、そこら中から聞こえる蝉時雨はいかにも夏という感じがし、自分の心を高揚させてくれた。
ツンとは当たり前のように話し、ドクオやショボンとの毎日も楽しかった。

だが、全ては消えてしまった。
幻想でなかったとはいえ、結局自分のような人間には真の幸せは訪れなかった。
自らの力で立ち上がらない者に、神が、幸運が味方するだろうか?
答えは、否。
結局、一度堕落した人間が再び立ち上がることは稀にしかない。
自分がこうして堕落した日々を送っていることも、自分自身への戒めなのだろうか。
既に太陽は天からの監視者であり、蝉時雨は地獄の交響曲。
辛い現実から逃げた先に待っていたのは、当然の如く罰であった。

ふと、思い浮かべてみる。
もしあの時、現実から逃げていなかったら?
──ツンを救うことのできなかった罪の意識による呪縛に、永遠に苦しむことになるだけだったであろう。
いや、苦しむことこそ重要だったのかもしれない。
苦痛を伴わない幸せなどない。苦痛をありのままに受け入れ、自らツンを救うことのできなかった罪を背負い、生きるべきだったのだ。
では、ツンを救うことができたら?
──ツンを救うことは、不可能だった。何故か?
自分が、昔から他人の恩恵だけで生き、自ら『生きよう』とはしなかったからだ。
全ては、因果応報だったのだ。気づいたのは全てを失ってからで、もう遅い。
自分は、確かに愚か者のままだった。

139 蝉時雨 New! 2006/07/17(月) 20:55:13.11 ID:xH3xaIVh0
既に起き上がることもままならない体になっていた。
夏も終わりに近付き、自分の生命を終わりに近付いていた。
蝉は最初の頃に比べればだいぶ減ったのだろうが、まだかなりの数が残っている。
どうやら、夏が終わるまで──自分が死ぬまでは、鳴きやむつもりはないらしい。
ぼんやりとした目で外の蝉を見ていると、一匹の蝉が話しかけてきた。

「どう?ようやく理解できた?」

ああ、理解できたよ。
言いかけたところで、慌てて言葉を止める。
いや、これはまだ答えではないのだ。
理解したところで、自分はこのままでは何も救えない。また失うだけ。
そしてその辛さから逃げ出し、また過ちを繰り返すのだ。
悪夢のような悪循環である。僕は、一体どうすれば・・・

「君自身の目で確かめればいいんだよ。」

蝉が楽しげに笑いながら語りかけてくる。

「外の世界に、戻ればいい。そうすれば、何時かは失ったものを取り戻せる。」

無理だ、僕にはもうそんな力は残されていない。
このまま、死ぬんだ。


141 蝉時雨 New! 2006/07/17(月) 21:08:07.69 ID:xH3xaIVh0
「そう、君はもう死ぬ。だけど、人間のままやり直せなんて誰が言ったかな?」

蝉はさぞ楽しげに笑う。

「僕達蝉は、罪の償いをしているんだよ。
何時の罪だったか、何の過ちを犯したのかは、もう覚えてない。
だけど、罪は確かに背負っている。だから、償わなければいけない。
だから、こうしてこの短い一生の中、ひたすら鳴き続けるんだよ。自らの罪を償うために。
蝉時雨は、ただの地獄の交響曲じゃない。償いの交響曲でもあるんだよ。」

そう言って、蝉はボトリの地面に落ちた。やっぱり死んでいた。
そうか、僕達が幼い頃から聞いていた蝉の鳴き声は、哀願の曲だったのか。
夏の風物詩というわけではなく、罪人達の許しの請い。
重たく、冷たい罪から解放されるべく、鳴き続けるのだ。
ああ、だからあのときの蝉は、あんなに誇らしげだったのか。
自らの罪を、償い終えたから。

意識が薄れかける。どうやら時間のようだ。
最後に、両親や友人達に一言残すべきだっただろうか。
ツンの両親に、一言謝っておくべきだっただろうか。
いや、そんなものはいらないだろう。
なぜなら、来年の夏に耳を傾ければ、聞こえてくるからだ。


僕の叫びが、蝉時雨にのって。


【蝉時雨】 完
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